絵なんて、気がついたら描いているものだろう。
自分が楽しいから描くのであって、周囲の動向なんて二の次だ。
ずっとそう思っていた。なぜなら自分自身がそうだったから。しかし世間の反応をみていると、どうもそうではない人もいるらしいと知った。
高性能お絵描きAIの登場によりインターネットの大海原が荒れている。
ちょっと泳いだだけでも、イラストレーターという職業の危機を唱える人や、AIが描いてくれるなら自分はもう描かなくてええわという意見がわんさか観測できる。この、「職の危機」と「筆を折る」という問題がなぜかいっしょくたに語られがちなので、ちょっと整理していきたい。
まず「イラストレーター」という職業の危機について。おそらくこれは、AIがプロ顔負けの絵が描けるようになってしまったから、いずれイラストレーターという職業が衰退していくであろうというという文脈での未来予想だろう。私個人的には半分合っていて半分違うと思う。
イラストレーターという仕事に必要な能力は3つあると私は考えている。ひとつめは純粋な画力、ふたつめはデザイン力、そしてみっつめがクライアントの意向を汲むコミュニケーション能力だ。
お絵描きAIが一番得意なことは、ひとつめの画力にあたる部分の仕事だろう。AIの絵は没個性的だが、流行りの絵なんて全部没個性なのでこんなの正直大した問題ではない(極論)。私の絵だっていわばきらら系の絵柄というジャンル分けが可能で、個性なんてないのだから。
- 筆者白森は、手塚治虫先生のような新しい絵柄(デフォルメ手法)を編み出せた人間のみこそが「個性的」だと考えている。
もちろん、私も絵を描く人間だ。比較的目は肥えていると思う。その立場でAIのイラストを見ると、やっぱりその絵に込められた「想像主の念・意志」的なものが欠如(というか中途半端な感じ)しているのはわかってしまうし、そういった意味でうまいけどあまり魅力的ではないなと思う。
だが、ごく一般の閲覧者(クライアント)にとっては、そんなのわからないし、そんなこだわりはどうでもいいだろう。イラストレーターという仕事は、絵を描かない一般のクライアントから依頼されて成り立つものなので、そのクライアントがAIの絵で十分だと考えたら、イラストレーターの仕事はなくなる。これはいくらイラストレーターがTwitterに感情論を書き綴ったところで変わらない事実だ。だからこそ、圧倒的画力だけで仕事(またはファン)をとってきたタイプのイラストレーターは、確かに今後AIにその座を奪われるおそれがある。
誰もが頷くようなわかりやすい「数字(いいねやRT)が取れているうまい絵」というものには「正解」が存在している。美人顔が平均顔というように、癖がなく塗り込みがリアルなものほど一般的には「うまい」と評価されやすいからだ。そのため「うまい絵」というのはだいたいみんな同じような線の描き方と塗り方に収斂していくことになる。
言ってしまえば「代替可能」ということになるのだ。
そして現代では、大衆の視線がフォロワー数や閲覧数という数字として現れる。己のセンスで絵を選ぶ責任を負わずに、みんなが良いと言っている「間違いない絵」を大量に選ぶことが容易だ。AIを操縦する人間はこうして「正解」のイラストをたくさん拾ってきてAIに与えれば良い。(または人間の操作自体不要なAIさえある/できるだろう)
数字で選ぶので選択する人間(IA)の「絵の取捨選択センス・審美眼」は問われない。だから「数字が取れているうまい絵」ほど模倣されやすく、そして画力技術のコピーが得意なAIに「代替」されてしまうリスクが高いのではないかと私は考えている。(性的な美少女イラストは、絵柄・塗り・構図・モチーフ全てがパターン化されているのでこの傾向がかなり顕著だと思う)
さて、次にイラストレータに必要な能力として取り上げた「デザイン力」について考えてみたい。
お絵描きAIは、学習データの傾向で絵を出力するため「よくある構図パターン」は人間が指示を出さずとも描き出すことができる。またAIが自主的に描かない構図についても、人間が細かく指示出しさえしてしまえば、AIが指示通りにいろんなデザイン・構図を描くこと自体はできる(ようになる)と思う。
だがデザイン力というのは、それを描けるということではない。クライアントの希望や商品規格、使用用途や目的などを踏まえて、ベストだと思われる構図やモチーフを発案し・選ぶ能力がデザイン力だ。絵を描く行為がDO(実行)であり、ベストな構図やモチーフを選ぶデザインはPLAN(企画)だと表現したらわかりやすいかもしれない。
現状、AIは描く対象を認識した上で構図を考えて描いているというわけではなく、ただ膨大なサンプルを参照して「”水着”というタグのついた絵には、このあたりに広く#FCE2C4が配置されていることが多い」というパターンで色の頒布を出力しているだけだ。AIひとりで適切なPLANからDOまでした絵が出力されるようになるには、現状のお絵描きAIの発展の方向性とはまた別の進歩がなければ実現は難しいだろうなと思う。
そのため私は、お絵描きAIが人間イラストレーターの職を丸ごと奪うという未来はまだ近くはないと考えている。しかし「絵は描けないけどAIに適切な指示を出せる」という「画力はないけどデザイン能力と己の希望を適切に言語化できる人間」は、近い未来に「AI使い絵師」になれるかもしれない。
- 本筋と外れるため、AI使いを「絵師」と表現して良いのかという議論については今回は割愛する。
ここで、「コミュニケーション能力」について取り上げよう。
イラストレーターという仕事に必要な能力として挙げた3つのなかで、コミュニケーション能力こそが一番大事だと私は思っている。なぜなら、クライアントが必ずしも己の希望を言語化できるとは限らないからだ。
いや、言語化どころかそもそも「こういうイラストがいい」という具体的な想像自体が頭に浮かんでいないクライアントも多い。コミュニケーション能力というと単に「他人と会話する能力」だと思ってしまう人もいるかもしれないが、そうではない。クライアントとやりとりした上で、先方のイメージを引き出したり、言葉の端々から希望を察知する能力がここでいうコミュニケーション能力だ。
このコミュニケーションは、まだお絵描きAIにはできない。だから逆に、自分でPLANしてそれを言語化できる(コミュニケーション能力の高い)人間はお絵描きAI使い絵師になれるということでもある。
インターネットでは「うまい人」が目につきやすいので、このAI使い絵師がうじゃうじゃ発生すると思ってしまうかもしれない。だが、実際のところPLANと指示出しがうまいというのも才能であって、その才能を持った人の数は実際そこまで多くはないのだろうなぁとも思う。
ちなみにAIは「無限の案出し」が得意なので、コミュニケーション能力がなくとも数の暴力でクライアントの理想、またはそれ以上のデザインを描き出せる可能性はある。その文脈で、クライアントがお絵描きAIを使って制作物の完成イメージ画像(雛形)を生成するという用途であれば、お絵描きAIはかなり実用的だと思う。
長々と描いてきたが、まあ要するにAIは「平均的にうまい絵を描くことが得意」な道具なので、ただTwitterに上げる絵ならともかく、クライアントという第三者の曖昧な希望やデザイン性が求められる商業イラストの生成は、現状まだ人間のプロには及ばないと思う。それに、仕事というのは結局人間同士が行うものなので、「誰が描いたものであるか」が重視されることもある。作家性がないというAIの弱点はどうしても残るだろう。
またここまで取り上げなかったが、お絵描きAIはみなさんご存知の通り、既存の作品を餌として絵を描いている。さらに無断転載サイトからイラストを引っ張ってきているなど、著作権的にも協議が必要なラインにあるので、今後の法整備によっては、どんなにAI技術が発達しても商業での実用化は難しくなる可能性はある。
イラストに限らず、AIが文章を書いたりナレーションをしたり感情をつけて喋ったり、人間の文化的営みだと思われてきた芸術的行為が意思のない機械によって模倣される事態はもう数年前からあった。また、技術の発展により消えていった職業など過去に星の数ほど存在する。なぜ今更ここまで騒がれているのかわからないが、まあおそらく画像という媒体がSNS映えするからなのだろう。
たしかにお絵描きAIに自立した意思はない。しかし、たくさんの人間の作品をサンプルとして下敷きにしているわけで、いわば「ヒトの集合意識」だ。完全に血肉が通っていないわけではない。そしてなにより、作品を見た第三者のこころのうちに、なにかしらの感情がうまれたら、もうそれは芸術と言えると私は思っている。(その生まれた感情が作者が想定したものではなくても。またはそもそも想定なんてものがなかったとしても。受け手によってそれぞれの解釈が生まれることこそに芸術の本質があると思う)
作り手側の意志ももちろん大事だが、それだけではないからこそ人は人の創造物ではない自然風景にも感動するしそこに芸術性を見出すのだろう。その意味で、お絵描きAIの作品生成行為を人間作家様の芸術行為に対する冒涜と主張するのもなにか違う気がする。(もちろん下敷きになった無断転載イラストの著作権の扱いなどの問題はあるが)
それに、人間が絵を描くのは単に上手い絵を作りたいからではなく、そもそも描くことが楽しいからではないのか?わたしたちは人間が描いた絵という「芸術」を守るために絵を描いているのではなくて、単に描きたいから描いているのではないのか?
どうなのだろう。
絵を描く動機は人それぞれだし正解はない。とはいっても、たくさんのお絵描きマンの中でも私の絵を描く動機はかなり内向的なの方なのだなぁと、このお絵描きAIの渦中で気がついた。少なくとも私は絵を描く際に芸術だの作家性だの高尚なものを守るために描いたことはない。ただ描くことが好きだから描いて、完成したら達成感を得て、また次はこうしたいなという反省を得て、おわり。私の場合は「描く」過程の楽しさと自己評価に重心があるため、正直ミミック炎上もあんまりピンときていなかった。
もちろん自作発言は著作権的にもアウトだし営業妨害なので訴える。しかし「自分の血と汗で作り上げた作家性を盗まれた」「腹がたつし許せない」といったような感情は私の中には特段生まれなかった。むしろ自作発言する人たちの行動原理の方が気になった……というより心配になった。
絵がうまいねと人から褒められたいのだろうか? しかし自分が実際には描いていない絵を褒められても別に嬉しくないだろうし、むしろ虚偽を重ねて虚しくならないのだろうか? それに絵って「描くこと」が一番たのしいのにその過程をすっ飛ばして、完成品だけ手に入れて楽しいのだろうか? でもお絵描きAIでイラスト生成することにハマっている人も一定数いるから、そういう需要もあるのだろうか?
職としてのイラストレーターが退廃したとて同じ話だ。もちろん、私も死ぬまで絵を仕事にしたいとは思っている。しかし社会で需要がなくなったらそれは仕事ではなくなってしまう。これは別に誰も悪くないし、どうしようもないことだ。お金が発生しなくなったことで筆を折り絵を描かなくなる人は、AIがなくともいずれ何かのきっかけで絵を描かなくなる人種なのではないかとも思う。
AIが絵を描いたからといって人間の絵を描く権利が奪われるわけではない。
AIの絵が上手くなっても、お金が稼げなくなっても、絵を描きたい人が絵を描けばいいと思う。
それ以上でもそれ以下でもないだろう。
しかしこう私が唱えたところで、絵を描く理由は人それぞれ。
集合意識AI vs 集合意識SNS人間の戦いは、まだ終わりそうにない。