「私」という一人称を使用することに、納得したことがない。
こういった文章だったり公的な場所で己を「私」と称することにはもう慣れた。慣れたというか、この世で女として生きる以上は、そう言わなければならないから諦めがついている。だが、自分ひとりで内心でモノを考えたりするときにでさえ、自分のことを「私」と称する(自認する)ことには違和感しかない。
ここまで私の独白を聞いて、こう思った人もいるだろう。「はいはい、自称美少女大好き絵描きさんファッションレズ乙!休日には弟と出かける女性声優気取りか?」と。おい、わかってるからな? そう思ったろ? そこのおまえ! おまえのことだよ!
私は誠実なのでおまえの問いに対しても、真摯に答えてあげたいと思っている。だが残念ながら、答えてあげることができない。なぜなら自分でも、なぜ「私」という一人称が嫌なのか理由がはっきりわかっていないからだ。
「私」という一人称は、性別問わず使える一人称とされている。公的な場だけでなくプライベートでも「私」を使う男性は少数派だとしても、いてもおかしくないし別に違和感もない。その理論でいけば、仮に私の精神がメンズだったとしても「私」という一人称に抵抗感を持つ理由にはならない気がする。
しかしやっぱり私は「私」と自称する時、社会に向けて「自分は女だ」と強制的に宣言させられているような、なんとも言えぬ微妙な気持ちになる。だからと言って公的な場で突然自分を「ワイ将」などと呼び始めたらヤバいやつだと思われるので仕方なく「私」と言う。しかし内心でまで「私」を使うのは嫌なのだ。
こう書いてしまうと自分でも誤解しそうになるが、私は自分の身体やスカートを履くことに違和感を覚えたことはない。むしろフェミニン系デザインの服は好きだ。(理由:かわいいから)それに私は「私」がしっくりこないからと言って「俺」や「僕」という一人称がしっくりくるかというと、そういうわけでもないのである。
「私」も「俺」も「僕」もダメで、じゃあ一体どの一人称だったらしっくりくるのだろうか。自分のことなのに、わからない。私に残された一人称は「ワイ将」しかないのだろうか。
一人称以外にも、社会生活を送る上で違和感を持つことがある。それは、目の前にいる人間を一人の人間として扱う以前に、年齢や学歴・職業、国籍、そして性別などが妙に重視されることがこの世では非常に多いということだ。
きっとこれは、当たり前のことなのだろう。「言語」を理解している時点で私たちはラベリングから逃れられない存在なのである。既存の価値観の枠を無視してものごとを判断するなんて不可能だ。私だって常にものごとを枠に入れて認識しながら思考しているはずだ。
とはいえ、「加減」ってものがあるよね? 少なくとも私は上記した要素をはじめ、性別を「特別なもの」として重視したことは、正直なところない。これは他者に対しても、自分に対してもだ。
え?なに?
「お前っていつも美少女が好きって言ってるよな」って?
なに?そうだが?何か問題があるか??
画面の向こう側から「思いっきり性別を意識してるじゃねぇか!」とツっこまれている気がする。だが待ってほしい。そういうことではない。厳密に言えば私は「かわいい生き物」が好きなのだ。だから別にかわいければ、男だろうと妖怪でもなんでも好きだ。ただ、私の「かわいいセンサー」に引っかかる対象が「女の子」である確率が高いから、便宜上「かわいい生き物=美少女」とまとめて呼んで愛でているという、それだけの話である。
それにもっと言うと、私はコンテンツとして生産された「理想的で愛らしい偶像」を美少女として認識し、そう扱っているまでだ。現実世界で目の前に「容姿の整った女性」が現れたとしても、私はキモオタのノリでその人のことを「美少女」として特別扱いしたり態度を変えて接するようなことは、当たり前だがしない。理解していただけたかな?
さて、本題に戻ろう。もしキミの目の前に、ナイキの靴を履いている人が現れたとしよう。その時、自分がアディダスを履いていたとして、キミはナイキを履いた相手に対して何か特別な感想を抱くだろうか? 私だったら「ああ、あいつはナイキなんだ」と認識はするが、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
私にとっての性別の違いとは、これと同じなのだ。
目の前の人間がどのような生き物で自分とどういった関係値になるのかは、「ひとりの人間」として相手を扱いコミュニケーションを重ねた上で判明することであって、性別や履いている靴は一切関係ない、と私は思っている。と同時に、私のこの価値観がマジョリティになることはないとも理解している。かなしいね。
一応補足しておくが、私は「性差」を否定しているわけではない。男女で体格の違いや脳構造的な違いがあることは事実だし、この違いを前提に社会は全人類が暮らしやすい制度やしくみを作るべきだと思う。アディダスとナイキにもそれぞれ得意な技術があるだろうから、各ブランドは己の技術でよりよい靴を作ればいいと思う。
つまるところ私は日常生活を送る上で、性別に対して向ける意識の重きが一般水準よりも低いのだろう。だからこそ、性別と連動した日本式一人称を日常的に使用することにどうも馴染めないのかもしれない。性別を一切問わない「I」みたいな一人称があればいいのにね。
今後私が己を「ワイ将」と呼んでいたとしても、それは日本語の敗北であって、私のせいではないことを皆さんには認識していただきたい。