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飯テロがわからない

飯テロ【めし-てろ】

飯テロとは、第三者の食欲を刺激して苛ませる行為、という意味で用いられる俗な表現である。典型的には、深夜あるいはダイエット中の(食事を抑制するべき)時分に、見るからに美味しそうな料理の写真などを見せつける、いかにも美味そうな飯の匂いを漂わせる、さも美味そうにこれ見よがしに飯を食う、といった動向が飯テロに該当する。(weblio辞書より抜粋)

私は生まれてこの方、飯テロという事象を身を持って理解したことがなかった。

夜分だろうとお腹が空いている時だろうと、美味しそうな焼肉料理を見せられたところで「焼肉の写真ですね」という感想を抱くのみで、自分も食べたい!という欲求が沸き起こったことがなかったのだ。

抱いたことのない度し難い感情概念を処理し損ねた私は、飯テロという存在自体を疑う境地に至った。「ぬるぽ」=「ガッ」のように、「美味しそうな飯写真」=「飯テロやめろw」という<お決まり>の行動様式なのではないか、と。現実世界上の建前だらけなコミュニケーションのみならず、インターネッツ上の自由なコミュニケーションすらも疑う、悲しき生き物と化した私。しかし2021年2月、転機が訪れる。

飯テロが「分かる」ようになった。

心当たりは、ある。とあるきっかけにより、自分の中の価値判断基準を「正しさ」から「おもしろさ」に切り替えたのだ。

これまで全く自覚していなかったのだが、物心がついた時から私はいかなるときにおいても「正しさ」を異常に重視して、モノの良し悪しを判断をしていたらしい。

「先生の話を聞く時は、手はおひざにのせましょう」
「座る時は、おなかと背中の間に握り拳一個分開けて、足は床につけましょう」
「クラスメイトのことはさん付けで呼びましょう」
「忘れ物はしてはいけません」
「5分前行動を意識して生活しましょう」
「下校途中、寄り道はしてはいけません」
「華美な髪型をしてはいけません」

学校という規律の求められる公共の場に出ると、人間はさまざまな「正しいきまり」を教えられる。だが、人は通常「正しさ」だけでは行動しない。「自分はこうしたい」という欲求と折り合いをつける形で、バレないように正しいきまりを破るのが普通だろう。実際にその決まりを遵守する人間なんてほぼいない。

「ほぼ」いない。

もう、おわかりだろう。私は「正しい」ことを「遵守しなければならない」という強迫観念に縛られた人間だったのだ。提示された「正しさ」「規範」「常識」が本当に正しいのかという疑いは人以上に抱いていたが、それでも守っていた。上記したカッコ書きの決まり事は全て私が小学生の時に守り抜いた「正しいきまり」ごとの一部である。私にとって、これらの正しさを守れないことは、死と同等であったのだ。

悪気がなくとも正しさを守れず「間違い」を犯してしまった際は、まず心臓が強く脈動すると同時に頭に殴られたような衝撃が走る。精神が生命の危機を察知し、視界がだんだん暗く狭くなるに比例して頭の中は真っ白になり、息苦しさと共に手が震えるという身体影響が誇張なしに出現していた。

いまでこそ、ちょっと忘れ物をしたりしたぐらいではこうはならないが、小中学生の頃は些細な間違いを犯すことにさえ死の恐怖を覚えていた。この習性のおかげで私は、クラスメイト全員を「さん付け」で呼び、そして距離感を計りかねたクラスメイト全員からも「さん付け」で呼ばれる「妙に姿勢の良い真面目な根暗」として友達もつくらず小学校を卒業した。

自分の好きな髪型をして家を出て、興味のない先生の話は聞かずに頬杖をつき、好きな友達のことをあだ名で呼びながら休み時間ギリギリまで遊び、帰り道は友達と寄り道した方が、人生楽しいに決まっている。だが私は、そう生きる選択肢があることにすら気づいていなかった。「これをすると楽しい」「これをするとおもしろい」「これがしたい」というポジティブな本能的欲求を抑えて、理性的な「正しい」行動しなければいけない、それが当たり前という価値観の星の元に生まれてしまったのだ。

そしてこの「たのしさ」「おもしろさ」への鈍感さが、「飯テロ」理解の低さへと繋がっていたようだ。どうやら「おいしい」という感情の機敏は、「たのしさ・おもしろさ」を受容する感性がなければほぼ機能しないものらしい。心身健康でないとご飯を美味しく食べられないとよく耳にするがまさにその通りで、理性で抑圧された不自然な精神状態の人間はご飯のおいしさもよくわからないのである。

これまで「正しさ」を守ることで得られた恩恵も、もちろんあった。どんなに疲れても死ぬ気で原稿を進めて締め切りを死守するという行動ができたのも、正しさ遵守メンタルがあったからだ。だが、やっぱり「正しさ」は本来的に人間にとって「不自然」なのだ。私は人生21年目でようやく、人間は普通「正しさ」よりも「たのしさ・おもしろさ」を求めて行動するものだと知った。

長年守ってきた価値観を急に全とっかえすることは不可能だが、「おもしろさ」を価値判断基準の中に入れるよう心がけるようになってから、明らかに心が軽くなった。飯テロも理解できるようになった。もし読者の中に、つい数ヶ月前の私と同様に「飯テロ」が理解できない方がいたら、まず自分の「たのしい」「おもしろい」という感情に向き合うことお勧めする。

「正しさ」だけでは人生は豊かにならない。そして「正しい」人間は、他者にあまり好かれない。おもしろく生きている人の方が豊かで楽しい人生を過ごせる上、おもしろい人間は他者からも好かれる。

こんなこと、ごく当たり前のことなのだが、私はこれまでずっと気づけなかった。

これまで幾多の飯テロを乗り越えてきたというみんなは、おめでとう!あなたは選ばれた人間です!そのまま自由な精神をもち続けてください!

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この記事を書いた人

白森 さわ まんが家・イラストレーター

絵や文章をかいたり、歌ったりしながら生きています。

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